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 [2002/07/05]■日本とメジャーリーグの橋渡し的存在のパンチョ伊東(伊東一雄)氏が死去。

【東京都、4日】

「パンチョ」の愛称でお茶の間ファンに人気のあった元パ・リーグ広報部長の伊東一雄(いとう・かずお)氏が4日午後6時45分、心不全のため入院先の東京・信濃町の慶応大学病院で死去した。68歳だった。伊東さんは昨年6月に体調を崩し、入退院を繰り返しながら闘病生活を送っていたが、この日夕に容体が急変し、帰らぬ人となった。突然の悲報に、日米球界関係者は深い悲しみに包まれている。

パンチョ氏は東京都出身。自宅は千葉県市川市新田1の17の15。通夜、葬儀・告別式は未定。喪主は実妹、武方晴江(たけかた・はるえ)さん。


4日午後6時45分。入院していた慶応大学病院の個室病棟で、伊東さんは68年の生涯を終えた。枕元で最期を看取った家族によると、眠るように安らかに息を引き取ったという。

昨年5月下旬、メジャーデビューを鮮烈に飾ったイチロー、移籍2年目の佐々木を応援・取材するため、伊東さんは米国・シアトルへ。約1週間の滞在期間中には、親友のバド・セリグ米大リーグコミッショナーとも単独会見。サンケイスポーツ紙上で日米球界の未来について熱い意見を交わすなど、精力的に動き回った。

だが、帰国直後の6月初旬、肩から背中にかけて激痛を訴え、緊急入院。そのまま長く過酷な闘病生活に入っていた。


『伊東さん、病に負けるな! 長嶋茂雄』。病室の壁には長嶋巨人前監督から贈られた激励の色紙がはられ、枕元のテーブルには小さな額に収められた1枚の写真が立て掛けられていた。金髪の米国人少女が、笑顔でこちら側を見つめているほほえましいスナップ。伊東さんは1人になると、枕元からその写真をジッと眺めながら、「セリグ(米大リーグコミッショナー)の孫娘だよ。かわいいだろう」と笑っていた。

生涯独身、子供がいなかった伊東さんにとっても、孫のような存在だったに違いない。13ヶ月間にも及んだ闘病生活中、伊東さんの心の支えになったのは、日米野球界の中心を担う多くの友人たちからの激励のメッセージの数々だった。

昭和24年、当時中学3年だった伊東青年は、日米野球で来日したサンフランシスコ・シールズの試合を見て大きな衝撃を受けた。都立両国高進学後は、進駐軍向けの米軍ラジオから流れる雑音混じりの米大リーグ放送に釘付けになり、独学で英語をマスター。43年、積年の夢がかない初渡米。今は取り壊されたセントルイスのスポーツマンズ・パークで初めて“メジャーの土”を踏んで以来、訪れたメジャー球場は43球場にも及んだ。

「アメリカ人でも、俺ぐらいメジャーの球場に足を踏み入れた奴ぁいないだろうなあ」

病室のテレビでイチローら21世紀のメジャーリーガーの活躍を眺めながら、伊東さんはいつもそう言っていた。最後までアメリカ野球を、日米野球界を愛していた。


★三宅アナ「悲しいというより、くやしい」

伊東氏が解説者として出演していたフジテレビのスポーツニュース番組『すぽると!』のキャスター、三宅正治アナウンサーは「メジャーリーグの素晴らしさ、おもしろさを教えてくれた。悲しいというより、くやしい」と悲痛。同番組の矢延隆生プロデューサーも昨年の米球宴でスタジオから出演した際「『イチローの初めてのオールスターなのに、なんでオレはここにいるんだ』と悔しそうだったのが忘れられません」と話した。

★伊東一雄氏(いとう・かずお)

昭和9年4月7日、東京・下谷の生まれ。中学時代から米大リーグに興味を持ち、34年にパ・リーグ入局。中沢不二雄パ・リーグ初代会長に師事し、アメリカ野球の豊富な知識を買われて日米野球界の橋渡し役として活躍した。パ・リーグ広報部長時代にはドラフト会議の名司会役を長らく務め、平成4年のパ・リーグ退局後はフジサンケイグループ解説者として活躍。サンケイスポーツ専属評論家。

【パンチョ伊東氏の最後のテレビ出演】

昨年7月11日、フジテレビ「スポルト」でイチロー、佐々木が初出場したメジャーリーグのオールスターを解説した伊東一雄氏。これが、病床からスタジオに駆けつけた最後のテレビ出演だった。



セリグ氏とも仲の良かったパンチョ伊東氏


★パンチョ伊東氏の主な活躍★

◆FEN 東京・両国の小学校時代から野球に魅せられ、後楽園球場に通った。中学校時代にはFEN(米軍放送)の大リーグ中継にかじりつき、英会話を独学で学んだ。

◆天覧試合 解説者だった中沢不二雄氏に「大リーグ情報」を書き送って親しくなり、中沢氏のパ・リーグ会長就任と同時に事務局へ。昭和34年の天覧試合では昭和天皇へのご説明役を務めた中沢会長に伴って球場入りした。

◆名司会 昭和43年からドラフト会議の司会進行役。張りのある声と選手の名前説明で有名になる。傑作は昭和51年阪神1位・益山性旭投手の「セイはセックスの性」。同59年大洋(現横浜)3位・蒲谷和茂投手の「カバはカバ焼きの蒲」。ドラフト最後のひと言は平成3年の「第10回選択選手、阪神、選択見送り」だった。

◆メジャーブーム パ・リーグの初代広報部長に就任した直後の昭和51年、フジテレビで大リーグ中継がスタート。解説者として“第1次メジャーブーム”を引っ張った。多くの大リーグ関係者から「パンチョ」(元阪急・スペンサーが命名)と呼ばれ親しまれた人柄で数々のエピソードを披露した。

◆日米新時代 平成7年、野茂がドジャース入りして“第2次メジャーブーム”が起こると現地に飛んで詳細なリポート。平成12年3月、日本で行われた史上初の大リーグ公式戦(メッツ対カブス)でも解説を担当した。

★追悼番組

ニッポン放送は、5日のヤクルト−阪神戦終了直後の「ショウアップナイターフラッシュ」の中で、伊東氏の追悼特番を組む。生前の音源を使い、故人をしのぶ。


一度会って、メジャーの話をしたかったなぁ〜。マジで・・・(管理人) パンチョ伊東氏のご冥福をお祈りいたします。

▼パンチョ伊東氏の記事
 ▲SANSPO.COM(サンケイスポーツ)


この記事及び写真は、パンチョ伊東氏がサンスポの専属評論家だった、サンケイスポーツさんの情報を元に作成いたしました。

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